この顕宗天皇(けんぞうてんのう)が、その父王(ちちみこ)の市辺之忍歯王(いちのべのおしはのみこ)の御骨(みかばね)を探し求めていた時、
淡海国(おうみくに:近江国(滋賀県)の賤しい(いやしい:身分の低い)老媼(おみな:年配の女)がやって来て申し上げました。
*市辺之忍歯王(いちのべのおしはのみこ)は「市辺之忍歯王(いちのべのおしはのみこ)の殺害」で、大長谷王(おおはつせのみこ)に殺され粗末に葬られています。
「王子(みこ)の御骨を埋めた所は、私がよく知っております。その御骨が王子の物であることは、その御歯(みは)で判断出来るでことでしょう」
市辺之忍歯王(いちのべのおしはのみこ)の御歯は、三枝(さきくさ)のように押歯(おさえば:八重歯)だったのです。
そこで顕宗天皇(けんぞうてんのう)は、人民を集め、土を掘り、その御骨を探しました。
そして、ようやく御骨を見つけ、その場所、蚊屋野(かやの)の東の山に御陵を作って埋葬し、韓袋(からぶくろ)の子らにその御陵を守らせました。
後になり、その御骨を持ち、河内(かわち:大阪)に還り上りました。
そうして還り上ると天皇は、その老媼を召して、市辺之忍歯王(いちのべのおしはのみこ)が葬られた場所を忘れずに、その地を覚えていたことを誉め、名を賜い置目老媼(おきめのおみな)と名付けました。
そして、置目老媼(おきめのおみな)を宮中に召し入れて、手厚く慈し(いつくし:大事に)みました。
また、その老媼の住む家を宮殿のすぐ近くに作り、毎日必ず召しになりました。
そのために、鐸(ぬりて:平らな釣鐘の形をした鈴)を御殿の戸に掛け、その老婆を召す時には、必ずその鐸を引いて鳴らし、また、歌を詠みました。
「淺茅原(あさぢはら) 小谷(をだに)を過ぎて 百伝(ももづた)ふ 鐸(ぬて)ゆらくも 置目来(おきめ)らしも」
訳:
「茅(かや)の低い原、小さな谷を過ぎて、鐸(ぬりて)が鳴り響いている。置目(おきめ)やって来るだろう」
それから時が経ち、置目老媼(おきめのおみな)は天皇に申し上げました。
「私は、年を取り、とても老いてしまいました。本国に退きたいと思います」
そこで、置目老媼(おきめのおみな)の申し出の通り本国に帰る時、天皇は見送見送り、歌を詠みました。
「置目もや 淡海の置目 明日よりは み山隠(やまかく)りて 見えずかもあらむ」
訳:
「置目よ、淡海の置目よ、明日からは山に隠れて見えなくなるのだろうか」
また、かつて、天皇が難から逃れる時、その時持っていた御粮(みかれい:保存食)を奪った猪甘(いかい:豚、猪を飼っている者)の老人(おきな)を探していました。
そして、その老人(おきな)を探し出し、呼び出して飛鳥河の河原で斬り、またその一族の膝の筋を切りました。
そのことにより、今に至るまで、その子孫が大和に上る日には、必ず自(おの)ずと足が不自由になるのです。
そして、その老人のいた場所をよく見させました。
そこでその地を「志米頻(しめす)」と言うのです。