疫病を鎮めた崇神天皇(すじんてんのう)はその後、各地に軍を派遣し、大和朝廷に従わない勢力を和らげて平定させました。

まず、第八代、孝元天皇(こうげんてんのう)の御子である大毘古命(おおびこのみこと:伯父にあたる)を高志道(こしのみち:北陸道)に御差遣(おさしつかい)になり、

その子である建沼河別命(たけぬなかわけのみこと)を東方十二道ひむかしのかたとおあまりふたみち:東海地方)に御差遣(おさしつかい)になりました。

また、崇神天皇の兄弟にあたる日子坐王(ひこいますのみこ)を丹波国(京都府、兵庫県の一部)に遣わせて、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を殺させました。

ところで、大毘古命(おおびこのみこと)が高志道(こしのみち:北陸道)に行く途中、山代の幣羅坂(やましろのへらさか:京都府木津川市の坂か)に軍を進めていたところ、

腰に短い裳(も:十二単を構成する着物の一つ)を着けた少女(乙女)が立っていて次のように口ずさんで歌っていました。

「御真木入日子(みまきいりびこ)はや 御真木入日子はや 己が緒を(おのがおを) 盗み殺(し)せむと 後(しり)つ戸よ い行き違(たが)ひ 前つ戸よ い行き違(たが)ひ 窺(うかか)はく 知らにと 御真木入日子はや」

訳:

「御真木入日子(みまきいりびこ:崇神天皇)よ 御真木入日子(みまきいりびこ:崇神天皇)よ あなたの命をこっそり殺そうとする者が、後の戸からすれ違い、前の戸からすれ違い狙いうかがっているのも知らないで、御真木入日子(みまきいりびこ:崇神天皇)よ 」

これを聞いた大毘古命(おおびこのみこと)は、奇妙に思い馬を返し、その少女に、

「お前が今言ったことは、一体どういうことだ?」

と問いました。すると少女は、

「私は何も言っていません。ただ歌を詠んでいただけです」

と言うと、たちまち姿を消してしまいました。

そこで、大毘古命(おおびこのみこと)は、すぐに都に引き返して、天皇に申し上げました。すると天皇は、

「これは、山代国に住むあなたの庶兄(まませ:異母兄)の建波邇安王(たけはにやすのみこと:建波邇夜須毘古命)が、謀反(むほん)を起こすことを知らせる神のお告げに違いない。伯父上、軍を率いて討ちに行くのです」

と仰せになり、丸邇臣(わにのおみ)の祖である日子国夫玖命(ひこくにぶくのみこと)を従わせて遣わせました。

この時、丸邇坂(わにさか:奈良県天理市和爾町辺りの坂)に忌瓮(いわいべ:神を祭る神聖な瓶)を据(す)えてから出発しました。

山代の和訶羅河(わからがわ:三重西部から京都南部を流れる木津川)に着くと、思った通りで、建波邇安王(たけはにやすのみこと)がすでに軍勢を率いて待ち構えていました。

両軍は、川を挟んで対峙し戦いに挑みあいました。そこで、その地を伊土杼美(いどみ:京都府木津川市木津町で今は「伊豆美(いずみ)」)といいます。

大毘古命(おおびこのみこと)と共に遣えていた日子国夫玖命(ひこくにぶくのみこと)が、敵軍に、

「そちら側がまず忌矢(いわや)戦いのはじめに互いに射合う神聖な矢)を放ってみろ!」

と言い放ちました。

そこで、建波邇安王(たけはにやすのみこと)が矢を射るも、その矢は全く何にも当たりません。

そして、次に日子国夫玖命(ひこくにぶくのみこと)が矢を放ったところ、その矢は見事に建波邇安王(たけはにやすのみこと)に当たり射殺しました。

このことで、軍勢は総崩れし兵達は逃げ散っていきました。

大毘古命(おおびこのみこと)らの軍は、逃げ散る敵軍を追い詰めて久須婆之度(くすばのわたり:大阪府枚方市樟葉)に着いた時、敵軍勢は苦しめられ恐怖に糞をもらし、それが袴(はかま)にかかりました。

そのことで、その地を糞袴(くそばかま)といいます。*今は「久須婆(くすば)」といいます。

そして、逃げ惑う軍勢の行く手を阻み斬りに斬ってことごとく倒したところ、その屍は鵜のように河に浮かんでいました。

そこで、この河を鵜河(うかわ)といいます。

さらに、兵を切り捨て放(はふ)ったので、その地を波布理曾能(はふりその:京都府精華町祝園)と言います。

大毘古命(おおびこのみこと)と日子国夫玖命(ひこくにぶくのみこと)らは、このようにして平定し終えると、崇神天皇(すじんてんのう)に報告しました。

さて、その後大毘古命(おおびこのみこと)は、最初の命令通りに高志国(北陸地方)に向かいました。

その途中、相津(あいず:会津国(福島県)で、東方に派遣されていた大毘古命(おおびこのみこと)の子の建沼河別命(たけぬなかわけのみこと)と行き会いました。

それで、その地を相津と言うのです。

 

こうして、それぞれに遣わされその国々を平定したので、都に戻り天皇に報告しまし、これにより天下は大いに平安し、人民は富み栄えました。

ここで初めて男に弓端之調(ゆはずのつき:狩猟(しゅりょう)した獲物を納めること)を、女には手末之調(たなすえのつき:手仕事で作った絹、糸、木綿などの織物を納める事)を献上させました。

これが徴税のはじまりで、また、その崇神天皇(すじんてんのう)の御代を称えて「初国知らしし御真木天皇」と申し上げます。

また、この御代に灌漑(かんがい:農地に外部から人工的に水を供給すること)用の溜池依網池(よさみのいけ:大阪市住吉区庭井の大依羅神社(おおよさみじんじゃ)辺りにあった池)と軽の酒折池(さかおりのいけ:奈良県橿原市大軽町付近にあった池)を作りました。

崇神天皇(すじんてんのう)は、戊寅年十二月(つちのえとらのとしのしわす)、御年が百六十八歳で崩御され、御陵は山辺の道の勾(まがり)之岡の上にあります。

*この時に初めて「古事記」に干支が付けられました。

 

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