忍熊王(おしくまにみこと)との戦いの後、大臣である建内宿禰命(たけうちのすくねのみこと)は、太子(ひつぎのみこと:品陀和気命(ほむだわけのみこと:後の第十五代、応神天皇))を連れて、
穢(けが)れを祓うため禊(みそぎ)をしようとして、淡海(おうみ:琵琶湖)や若狭国(わかさのくに:福井県)を巡りました。
その時、高志の前の角鹿(つぬが:福井県敦賀市)に仮宮を建てて滞在していました。
*前の戦いの時に敵軍を騙すため「御子は既に亡くなりました」と太子を死んだように言い広めた時の穢れを祓うため禊と思われます。
すると、その地に住む伊奢沙和気大神命(いざさわけのおおかみのみこと)が、太子の夢に現れて、
「私の名を御子の御名に変えたい」
と仰せになり、それに対し太子は、
「恐れ多いことです。お言葉通りにいたします」
と申し上げると、その神は、
「明日の朝、浜に行きなさい。名を換えた証の贈り物を差し上げよう」
と仰せになりました。
そこで、翌朝になり浜へ出かけると、鼻に傷が付いた入鹿魚(イルカ)が浦(海岸)一面に打ち上げられていました。
その、大量の入鹿魚(イルカ)見た太子は、
「私に、御食(みけ)の魚を与えて下さった」
と申し上げました。
それにより、その神の御名を称えて御食津大神(みけつおおかみ)と名付けました。
それが、今の気比大神(けひのおおかみ:福岡県敦賀市の気比神社の御祭神)です。
また、入鹿魚(イルカ)の鼻の血が臭かったので、その浦を「血浦(ちうら)」といい、今では都奴賀(つぬが:現在の敦賀)と言われます。
*この夢での会話は建内宿禰命(たけうちのすくねのみこと)なのか太子なのかは、正確には不明ですが、おそらくは太子であると思われます。
建内宿禰命であるなら、太子の御名を変えるのに勝手に返答したことになりますし、太子ならここまでの会話ができる年齢だったのかなどの疑問もありますが、そこは「物語」と言うことで。
神と対話し名をもらったことで神性の証になり、まさしく天皇にふさわしい御子であることを明白にしているわけです。
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