神功皇后(じんぐうこうごう:息長帯日売命)は、筑紫国(つくしのくに:九州)で出産を終え、大和国(奈良県)に帰る時、
何者かが反逆を企て命を狙ってくるかもしれないと、人々の心が疑わしく思いました。
そこで、神功皇后(じんぐうこうごう)は、喪船(もふね:棺(ひつぎ)を乗せる船)を一隻用意させ、御子(品陀和気命(ほむだわけのみこと:後の第十五代、応神天皇)をその船に乗せ、
「御子は既に亡くなりました」
と言い広め大和へと向かいました。
すると、それを聞いた香坂王(かぐさかのみこ:異母兄)、忍熊王(おしくまにみこと:異母兄)達が、待ち伏せし殺害しようと企てて、
その企ての吉凶を占うため、斗賀野(とがの:大阪市あるいは神戸市)に進み出て誓約狩(うけいがり:占いの一種)をしました。
*誓約狩(うけいがり):神に誓いを立てた後に狩りを行い、その結果で吉凶を占う。
香坂王(かぐさかのみこ)が、櫟(くぬぎ)の木に登っていると、そこに怒れる大きな猪が現れ、その櫟の木を堀り倒し、香坂王(かぐさかのみこ)を食い殺してしまいました。
*つまりは誓約狩(うけいがり)の結果が凶と言うことです。
香坂王(かぐさかのみこ)の弟の忍熊王(おしくまにみこと)は、そのことを恐れず、軍勢を集め神功皇后(じんぐうこうごう)の船に立ち向かいました。
その時、忍熊王(おしくまにみこと)らの軍勢は、喪船をやりすごし、空船を攻めようとしました。
すると、神功皇后(じんぐうこうごう)は喪船から軍を下して戦いになりました。
*つまり、ダミーと思わせた喪船に兵が乗り込んでいて、皇后たちの乗る船は実は皇后も兵も乗せず、忍熊王(おしくまにみこと)ら欺き、油断させる策(情報戦略)だったわけです。
またこの時、忍熊王(おしくまにみこと)は難波の吉師部(きしべ:渡来系の氏族)の祖の伊佐比宿禰(いさひのすくね)を将軍に、
太子(ひつぎのみこ:品陀和気命(ほむだわけのみこと:後の第十五代、応神天皇))の方は、丸邇臣(わにのおみ)の祖の難波波根子建振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと)を将軍にして戦いました。
そして、太子側が伊佐比宿禰(いさひのすくね)を追い退けて、山代(京都府南部)に至った時、伊佐比宿禰(いさひのすくね)側も引かずに立ち向かって来て、互いに一歩も引かない戦いになりました。
そこで、建振熊命(たけふるくまのみこと)は、
「息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと:神功皇后)は、既に亡くなった。だから、これ以上互いに戦うことはない」
と伝えさせ、持っていた弓の弦をすぐに切り、相手を欺き降伏して見せました。
伊佐比宿禰(いさひのすくね)は、その偽りを信じて、弓を外し、兵を収めました。
するとその時、建振熊命(たけふるくまのみこと)は、頂髪(たきふさ:頭頂で束ねた髪)の中から、予備の弦を取り出し、それを弓に張り追撃しました。
それにより、伊佐比宿禰(いさひのすくね)側は、逢坂(おうさか:京都と滋賀の境)まで退却し、そこで向かい立って再び戦いました。
しかし、建振熊命(たけふるくまのみこと)側は、とうとう伊佐比宿禰(いさひのすくね)側を追い詰め、沙々那美(ささなみ:琵琶湖西岸)にて撃破し、ことごとく敵兵を斬り殺しました。
忍熊王(おしくまにみこと)と伊佐比宿禰(イサヒノスクネ)は、共に追い詰められ、船に乗り込み海(琵琶湖)に漂いながら歌を詠みました。
「いざ吾君(あぎ) 振熊(ふるくま)が 痛手負はずは 鳰鳥(にほどり)の 淡海(あみふ)の海に 潜(かず)きせなわ 」
訳:
「さあ、我が将軍よ、振熊(建振熊命(たけふるくまのみこと))なんかに痛手を負わされるよりは、水鳥の鳰(かいつぶり:カイツブリ属に分類される鳥類)のように、近江(おうみ)の海に潜ろう」
こう歌を詠み終えるとすぐに海(琵琶湖)に身を投げ共に死んでしまいました。